沢田研二さんはダンス喫茶●●でアルバイトをしていた
皆さん、こんばんは。
薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、
7月7日七夕生まれの、
ミスターヒコボシです。
本日は、グループサウンズ全盛期の、
『ザ・タイガース』のボーカルから始まり、
スーパースターの名を欲しいままに歩んできた、
ジュリーこと沢田研二さんの登場です!
プロフィール
京都府立鴨沂高等学校中退
生年月日 1948年6月25日
身長 171cm
体重 48kg
血液型 A型
経歴
★京都市立第三錦林小学校
※学校の成績は優秀で、スポーツ万能だったので文武両道を地で行くタイプであった。
※プロ野球選手に憧れていた頃で、ジャイアンツの川上哲治選手や
藤尾茂選手のファンだった。
タイガースと違うんか~い!(笑)。
★京都市立岡崎中学校
※野球部に所属し、キャプテンも務めた。ポジションは一塁手であった。
※京都市で4位となり、京都府大会にも進出したが、ここで敗れて、
プロ野球選手の夢は、あっさりとあきらめた。
★京都府立鴨沂高等学校
※かって同校は、京都大学の合格者数で、
全国一位になった程の進学校であった。
※空手部に所属しながら、ダンス喫茶「田園」でアルバイトをしていた。
※アルバイト先で「サンダース」というバンドに誘われ
ボーカルを担当する事になる。
※「サンダース」のステージを見ていた岸部一徳さんにスカウトされ、
「ザ・タイガース」の前身バンド「サリーとプレイボーイズ」に、
ボーカルとして加入したため、高校は中退することになる。
※正式加入後、バンド名が「サリーとプレイボーイズ」から
「ファニーズ」に変更された。
※「ファニーズ」として、大阪にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」に
出演した時、共演したロック歌手の内田裕也さんから声をかけられる。
シェケナ ベイビー!(笑)
※内田裕也さんを通じ、メンバー全員が渡辺プロと契約した。
※「ジュリー」の愛称は、渡辺プロの社長と沢田研二さん自身が、
イギリスのエンターティナー、ジュリー・アンドリュースさんが
好きだったことから名付けられたという説が有力である。
※上京後、ザ・ヒットパレードという歌番組のプロデューサーに、
出演直前「ザ・タイガース」と名付けられた。
★1967年
※2月5日にシングル曲『僕のマリー』でデビューを飾る。
※セカンドシングルとしてリリースした『シーサイド・バウンド』が、
40万枚の大ヒットとなり、人気に火が付いた。
踊りに行こうよ ♪ 青い海のもとへ ♪
ゴーゴー!(笑)。
※8月15日に発売した3枚目のシングル曲
『ヤング・ミュージック』ランキング一位を
獲得するなど大ヒットした。
★1968年
※1月5日に4枚目のシングル曲「君だけに愛を」をリリース。
※曲のサビの部分で、ジュリーが観客に向かって「君だけに~!」と
指をさすポーズは、当時「黄金の人差し指」と呼ばれ、失神者が
コンサートで続出し、グループサウンズブームを印象付ける、
代表的な曲となった。
★1969年
3月1日に、アメリカの音楽雑誌の中で、歴史と権威が、
トップクラスの音楽雑誌「ローリング・ストーン」の
表紙に登場した。
★1971年
※1月24日に「ザ・タイガース ビューティフル・コンサート」を
日本武道館で行ない、解散した。
夢の様なメンバーでPYGを結成した。
ニューロックを目指したものの、思惑は外れ、
残念ながら、あまり人気は出なかった。
※11月1日発売のシングル曲「君をのせて」で、
ソロデビューを果たしたが、累計売上は10万枚と
厳しいスタートとなる。
★1972年
※2枚目のシングル曲「許されない愛」が3月11日に発売された。
※オリコン最高位の4位を記録し、ソロとして
初のオリコントップ10入りを果たした。
※映画『虹をわたって』で、人気絶頂だった天地真理さん、
萩原健一さんと共演した。
※マカロニ刑事役で『太陽にほえろ!』に出演していた萩原健一さんに、
犯人役で撃たれて死ぬ役を好演し、話題となった。
ショーケンと結構からんでる~!(笑)
★1973年
※「危険なふたり」を4月21日に発売し、65万枚の大ヒットとなる。
※ソロとして初のオリコン一位を獲得すると同時に、
第4回日本歌謡大賞を受賞した。
★1974年
10枚目のシングル曲となる「追憶」が58万枚の売り上げを上げ、
2回目のオリコン一位に輝いた。
ニーナ~ ♪ 忘れられない~ ♪ (笑)。
★1975年
「時の過ぎゆくままに」が8月21日に発売され、5週連続で
オリコン一位を記録し、累計売上も92万枚に達した。
三億円犯人は、何処に?
★1977年
5週保ち、89万枚を売り上げるヒット曲となり、
第19回日本レコード大賞を受賞した。
★1980年
※「TOKIO」が1月1日に発売され、電飾装備のスーツに身をまとい、
パラシュートを背負って歌うパフォーマンスが大きな話題を呼んだ。
※大晦日の除夜の鐘が鳴り終わり、新年を迎えてすぐに、この姿で
テレビ出演していたのを見て、私自身もビックリしたのを覚えています。
ビジュアル系のパイオニア
この頃から一気にビジュアルを重視したスタイルが加速して、
人気を一層拡大させていきましたが、当時のジュリーは、
男の私から見ても、本当にカッコよかったですね。
今どきの中高生が、You Tubeで当時の映像をみて、
「同じ時代に生まれたかった。」とか
「こんなに歌唱力があって、カッコいい人は、今の時代にはいない。」
と言って夢中になっているのも頷けます。
現在でも歌唱力は衰えるどころか、
今もなお進化しているように思われますので、
失礼ながら・・・、
少しでも全盛期の体形に戻して頂ければなと、
切に願ってしまいます。
では、今日のところはこの辺で。
また次回、元気でお会いしましょう。