頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛法

発毛効果のあるブログ

約30年間薄毛と共に過ごしてきましたが、ある情報がきっかけで、薄毛治療を開始し、改善されつつあります。まさか61歳にしてこんなに改善されるなんて想像もしていませんでしたので、本当にビックリしました。おかげさまで副作用も全くないので、一体どこまで改善されるのか、楽しみしかありません。

中村雅俊さんが学生時代に住んでいた部屋の家賃が・・・

皆さん、こんばんは。

薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、

7月7日七夕生まれの、

ミスターヒコボシです。

 

本日は、優しい面立ちで様々な役柄を魅力的に演じる俳優業と、

ライブ本数1,500本を超える音楽活動を、見事に両立させて

活躍している、中村雅俊さんの登場です!

 

プロフィール

 

慶応義塾大学経済学部出身

生年月日 1951年2月1日

身長 182cm

体重 72kg

血液型 O型

 

経歴

 

★幼少期

※漁師の父親と、母親、5歳年上と3歳年上の姉の、5人家族だった。

 

※3歳の時に父親が亡くなってしまった(享年42歳だった)

 

※父親に関する記憶は、亡くなる瞬間の姿と、火葬場に行く車ぐらいだった。

 

※シングルマザーとして家族を養うために、

母親が自営で「BAR八重」を始めた。

 

※末っ子で、家族の中で男一人だったので「王子」と呼ばれ、かわいがられた。

 

※結構やんちゃな子供で、墓場で墓石を飛び越える遊びをしていて、

墓石を倒すという、バチあたりな事をしたことがあった。

 

宮城県牡鹿郡女川町女川第一小学校(現:女川小学校)

※勉強ができて、成績はかなり良かった。

 

※好きな女の子に会いたくて、その子が通っていた、そろばん塾に入った。

 

※その女の子は、すぐに転校して、いなくなってしまったが、

そろばん塾は通い続け、2級を取った。

 

※下校途中にガマンできなくなって、必死で走ったが間に合わず、

ウンコを2回漏らしたことがある。

 

 

なぁ~に~? やっちまったなぁ!(笑)。

 

 

※学校の担任の先生が母親の店に来て、酔っぱらってしまい、

説教されたことがあった。

 

宮城県牡鹿郡女川町立女川第一中学校

※相変わらず勉強が出来て、成績優秀で、毎年学級委員を務めた。

 

バスケットボール部に所属し、キャプテンになった。

 

※店の経営で母親が忙しく、毎日テーブルに

200円の食事代が置かれていたが、食事代を100円に抑え、

残りの100円を貯金して、大好きだったビートルズや、

当時流行っていた、グループサウンズのレコードを買って聞いていた。

 

※中学の近くにあった「バッカス」というキャバレーの、

下着姿のホステスを毎日覗いていた。

 

※母親が経営していた「BAR八重」ホステスが自宅の隣の部屋に住んでいて、

下着姿でウロウロしているのが見えてドキドキした。

 

あっちも下着、こっちも下着で・・・。

 

クセがすごいんじゃあ~~!!(笑)。

 

 

※中学の時の3年間で25cmも身長が伸びて、

3年生の時には180cmに到達した。

 

※中3の時に交際を始めた女の子とは、大学時代まで付き合い、

手紙をやりとりしたり、作った曲をプレゼントしたりした。

 

宮城県石巻高等学校

※当時は県立の男子校で、1923年創立の伝統校でもあり、

地元では古くから、進学校として知られていた。

 

バスケットボール部のキャプテンを務め、引き続き学校の成績もよく

文武両道だった。

 

バスケットボール部の先輩に影響を受けて、ギターを始めた。

 

※電車でよく、目の前に座った人の目を見続けて、

視線をそらした方が負けという「ガン付けゲーム」をしていた。

 

※母親に見つからない様に、電信柱によじ登って、家の2階から出入りし、

悪友が集まって飲み会をした。

 

※将来は外交官になりたくて、東京外国語大学を志望したが、

東北大学への進学を希望する母親と対立した。

 

※最終的には東京外国語大学を受験したが、不合格となり、

一年浪人後、慶應義塾大学経済学部に合格し、母親も納得した。

 

慶応義塾大学経済学部

※ESS(英会話研究会)に所属し、四大学英語劇大会に参加し、

さらに、五木寛之の小説を読むことで、外交官になることを、

引き続き夢見ていた。

 

横浜市のトイレ共同、風呂なし、4畳半で

家賃5,000円の部屋に住んでいた。

 

※金持ちの同級生が住んでいる部屋の家賃が10万円と聞いて

ビックリした。

 

※実家から通学していた友人の家に行って、よく食事をごちそうになり、

友人不在の時でもごちそうになった事があった。

 

※野球の早慶戦の時は、前日から徹夜で席取りをした。

 

※様々なアルバイトをして学費を稼いでいた。

★家庭教師、ビアガーデンウエイター、ハンバーガー屋、ビルの清掃、

デパートで商品包装、店頭販売、貨物運搬など肉体労働は好きだった。

 

※家庭教師先の家でも、よく食事を食べさせてもらっていた。

 

※付き合っていた彼女の家で、家族と一緒に食事をさせてもらい、

彼女がいない時でも、食事目当てに遊びに行ったりしていた。

 

 

クセがすごいんじゃあ~~!!(笑)。

 

 

※昔のバンカラ学生に憧れ、下駄を愛用していた。

 

★1973年

文学座付属演劇研究所に入所し、大学を卒業すると同時に、

文学座に入団した。

 

★1974年

日本テレビ系列で放送された、太陽学園ラグビー部を舞台とした、

青春ドラマ「われら青春!」の主役に抜擢され、大ブレイクした。

 

※「われら青春!!」の挿入歌「ふれあい」がデビューシングル曲となり、

オリコン1位に輝き、100万枚を突破するセールスを記録する

大ヒットとなった。

 

★1975年

日本テレビ系列の刑事ドラマ「俺たちの勲章」で共演した

五十嵐淳子さんと、1977年メデタク結婚することとなる。

 

日本テレビ系テレビドラマ「俺たちの旅」で主演した。

 

カースケ!!(笑)。

 

※ドラマの主題歌「俺たちの旅」がヒットし、レコード会社が

ご褒美に、ヨーロッパ旅行をプレゼントしてくれた。

 

古き良き時代ですね!

 

ふれあい

 

中村雅俊さんは、高校卒業後もっと広い世界を見たいという思いで、

故郷である、宮城県の女川町を後にして、上京しました。

 

そんな中村さんにとって、2011年の東日本大震災

ショック以外の何物でもなく、震災後、自分は女川の人間だから、

支えなければいけないという地元意識が強くなったそうです。

 

大学時代に作曲した、故郷の女川を歌った曲「私の町」を歌うと、

地元の人たちは皆さん、泣いて喜んでおられます。

 

定期的に地元に帰って歌を歌うたびに、歌の力を再認識し、

役者1本でなく、ヒット曲「ふれあい」だけの一発屋でなかった事に、

改めて感謝しているそうです。

 

 

 

人は皆、一人では生きていけないものだから ♪

 

 

 

では、今日の所はこの辺で。

 

また次回、元気でお会いしましょう。

 

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