ジャイアント馬場さんの中学入学時の身長は●●●cmだった
皆さん、こんばんは。
薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、
7月7日七夕生まれの、
ミスターヒコボシです。
本日は、読売ジャイアンツのピッチャーを
経て、プロレスラーになった、異色の
プロレスラー、日本プロレス界史上最大の
巨体を誇った、ジャイアント馬場さんの
登場です!
プロフィール
生年月日 1938年1月23日
身長 209cm
体重 135kg
血液型 O型
経歴
※入学後すぐに野球を始めるが、体格は
小柄な方だった。
※3年生頃から、急速に身長が伸び始める。
※5年生にして、身長175㎝ほどになり、
地元の少年野球団「若鮎クラブ」に所属し、
エースピッチャーとなる。
※入学時、既に身長は190㎝に達していた。
※身長が伸びると同時に、足も大きくなり、
自分の足に合うスパイクがないという事で、
野球部に入部する事を断念し、何故か、
美術部に入部した。
※馬場さんの足に合う、特注スパイクを
与えてもらう事になり、念願の野球部に
ようやく入部した。
※地元では、練習試合ながら18奪三振など
活躍した為「巨漢馬場投手」として、
有名だったが、残念ながら、
甲子園出場の夢は、叶わなかった。
プロ野球選手
★1955年
1月に三条実業高等学校を中退し、読売ジャイアンツに投手として入団する。背番号は59だった。
★1956年
2軍ながら、12勝1敗の好成績を
あげ、最優秀投手賞を受賞した。
★1957年
※この年も2軍ながら13勝2敗で、
2年連続、最優秀投手を受賞し、将来を
大いに嘱望された。
※10月23日の中日ドラゴンズ戦で、ついに
先発で一軍初のマウンドに上がった。
※エースの杉下投手との投げ合いとなり、
5回まで無失点の好投を見せたものの、
試合には敗れる。
※この試合で相手チームの杉下投手は、
通算200勝を達成した。
★1959年
※1958年は、目立った活躍を見せる事は
出来なかったが、この年は3度目となる、
2軍の最優秀投手賞を受賞した。
※2軍とはいえ、最優秀投手賞を受賞したにもかかわらず、馬場投手の後ろ盾となり、
評価してくれていた、藤本英雄投手コーチが
退団した事もあり、巨人を同年オフに、
自由契約された。
※巨人には5シーズン在籍したが1軍での登板は、1957年の3試合のみで、先発したのは、
1試合のみであった。
通算成績0勝1敗、防御率1.29
(NPB公式記録)
★1960年
※1月に大洋ホエールズ(現:DeNAベイスターズの前身)の明石キャンプに、巨人から
大洋ホエールズに移籍した谷口五郎コーチに
誘われ、テスト生として参加し、採用内定を勝ち取る。
※宿舎の風呂場で転倒するというアクシデントに見舞われ、左肘に17針を縫う外傷を負う。
※ケガの後遺症で、左手の第三指と第四指の
関節が伸展出来ない状態が続いた為、
やむなく、プロ野球選手を断念した。
※恵まれた身体を生かした仕事をしたいと
考え、自宅アパート近くのボクシングジム
でのトレーニングを継続した。
※3月に巨人時代に面識を持った、
プロレスラーの力道山に会いに、
日本プロレスセンターを訪問したが、
遠征中の為、不在であった。
※元野球選手という、馬場さんと同じ経歴を
持っていたプロレスラー、竹下民夫さんに、
プロレス入門を薦めれる。
※4月11日にブラジル遠征から帰国した、
入門を直訴する。
※その場で100回のヒンズースクワットを
命じられ、難なくこなした事で入門が
決定した。
※この年の9月30日に、台東体育館で、
シングル戦デビューを飾り、股裂きギブアップで田中米太郎選手に勝利した。
★1962年
シカゴでバディ.ロジャースに勝利し、
NWA世界ヘビー級王者のタイトルを、
獲得した。
★1963年
ロサンゼルスで、ザ.デストロイヤーに
勝利したものの、反則勝ちであった為、
残念ながら、WWA世界ヘビー級王者の
タイトル奪取ならず。
★1964年
アメリカに於いて、当時の三大世界タイトルであったNWA(ルー.テーズ)WWWF(ブルーノ.サンマルチノ)WWA(フレッド.ブラッシー)に連続で挑戦した。
この挑戦は、アメリカのプロレスマット界の
伝説となり、ジャイアント馬場さんの名前を、世界に知らしめる基盤となった。
★1965年
ディック.ザ.ブルーザーに勝利し、
インターナショナルヘビー級王者の
タイトルを獲得した。
★1972年
全日本プロレスリング株式会社を
旗揚げした。
★1980年
デビューから20年目に、ザ.シークを相手に
した試合で、通算3000試合を達成した。
★1985年
※7月にスタン.ハンセンに敗れ、
PWFヘビー級王座を奪われる。
※第一線から退いた後は、ラッシャー木村選手や、百田光雄選手とファミリー軍団を
結成し、前座で明るく、楽しく、愉快な、
プロレスを披露し、人気を博した。
★1998年
12月5日に、プロレスラーを現役引退する。
通算なんと、5769試合もリングに上がった。
★1999年
プロレスラー現役引退からわずか2ヶ月後の、1月31日に、入院していた東京医科大学病院に於いて、61歳の若さで逝去した。
死因は、大腸癌の肝転移による肝不全であった。
本物のエンターティナ―
世間一般では、プロレスはあくまで、
ショーであり、真剣勝負をやっていないと
揶揄される傾向に有る様に思われますが、
馬場さんは「シュート(真剣勝負、ガチンコ)を超えたものがプロレス。」という
言葉を残しています。
観客を芯から熱狂させ、興奮状態にさせる
試合を行なう為には、真剣勝負を超える次元の事をやらなければならない、ということだと私は理解しています。
その為には、心身共に、想像を絶する
鍛錬が必要だったのでしょう。
ある意味、本物のエンターティナーだと
思います。
早過ぎる死が、本当に悔やまれます。
では、今日の所はこの辺で。
また次回、元気でお会いしましょう。