頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛法

発毛効果のあるブログ

約30年間薄毛と共に過ごしてきましたが、ある情報がきっかけで、薄毛治療を開始し、改善されつつあります。まさか61歳にしてこんなに改善されるなんて想像もしていませんでしたので、本当にビックリしました。おかげさまで副作用も全くないので、一体どこまで改善されるのか、楽しみしかありません。

ジャイアント馬場さんの中学入学時の身長は●●●cmだった

皆さん、こんばんは。

薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、

7月7日七夕生まれの、

ミスターヒコボシです。

 

本日は、読売ジャイアンツのピッチャーを

経て、プロレスラーになった、異色の

プロレスラー、日本プロレス界史上最大の

巨体を誇った、ジャイアント馬場さんの

登場です!

 

プロフィール

 

 

三条実業高等学校(現:新潟県央工業高校)中退。

生年月日 1938年1月23日

身長 209cm

体重 135kg

血液型 O型

 

経歴

 

 

新潟県三条市四日町国民学校

※入学後すぐに野球を始めるが、体格は

小柄な方だった。

 

※3年生頃から、急速に身長が伸び始める。

 

※5年生にして、身長175㎝ほどになり、

地元の少年野球団「若鮎クラブ」に所属し、

エースピッチャーとなる。

 

新潟県三条市立第一中学校

※入学時、既に身長は190㎝に達していた。

 

※身長が伸びると同時に、足も大きくなり、

自分の足に合うスパイクがないという事で、

野球部に入部する事を断念し、何故か、

美術部に入部した。

 

※馬場さんの足に合う、特注スパイクを

与えてもらう事になり、念願の野球部に

ようやく入部した。

 

※地元では、練習試合ながら18奪三振など

活躍した為「巨漢馬場投手」として、

有名だったが、残念ながら、

甲子園出場の夢は、叶わなかった。

 

プロ野球選手

 

 

★1955年 

1月に三条実業高等学校を中退し、読売ジャイアンツに投手として入団する。背番号は59だった。

 

★1956年 

2軍ながら、12勝1敗の好成績を

あげ、最優秀投手賞を受賞した。

 

★1957年 

※この年も2軍ながら13勝2敗で、

2年連続、最優秀投手を受賞し、将来を

大いに嘱望された。

 

※10月23日の中日ドラゴンズ戦で、ついに

先発で一軍初のマウンドに上がった。

 

※エースの杉下投手との投げ合いとなり、

5回まで無失点の好投を見せたものの、

試合には敗れる。

 

※この試合で相手チームの杉下投手は、

通算200勝を達成した。

 

★1959年 

※1958年は、目立った活躍を見せる事は

出来なかったが、この年は3度目となる、

2軍の最優秀投手賞を受賞した。

 

※2軍とはいえ、最優秀投手賞を受賞したにもかかわらず、馬場投手の後ろ盾となり、

評価してくれていた、藤本英雄投手コーチが

退団した事もあり、巨人を同年オフに、

自由契約された。

 

※巨人には5シーズン在籍したが1軍での登板は、1957年の3試合のみで、先発したのは、

1試合のみであった。

通算成績0勝1敗、防御率1.29

NPB公式記録)

 

★1960年

※1月に大洋ホエールズ(現:DeNAベイスターズの前身)の明石キャンプに、巨人から

大洋ホエールズに移籍した谷口五郎コーチに

誘われ、テスト生として参加し、採用内定を勝ち取る。

 

※宿舎の風呂場で転倒するというアクシデントに見舞われ、左肘に17針を縫う外傷を負う。

 

※ケガの後遺症で、左手の第三指と第四指の

関節が伸展出来ない状態が続いた為、

やむなく、プロ野球選手を断念した。

 

※恵まれた身体を生かした仕事をしたいと

考え、自宅アパート近くのボクシングジム

でのトレーニングを継続した。

 

※3月に巨人時代に面識を持った、

プロレスラーの力道山に会いに、

日本プロレスセンターを訪問したが、

遠征中の為、不在であった。

 

※元野球選手という、馬場さんと同じ経歴を

持っていたプロレスラー、竹下民夫さんに、

プロレス入門を薦めれる。

 

※4月11日にブラジル遠征から帰国した、

力道山に会いに行き、日本プロレスへの

入門を直訴する。

 

※その場で100回のヒンズースクワットを

命じられ、難なくこなした事で入門が

決定した。

 

※この年の9月30日に、台東体育館で、

シングル戦デビューを飾り、股裂きギブアップで田中米太郎選手に勝利した。

 

★1962年 

シカゴでバディ.ロジャースに勝利し、

NWA世界ヘビー級王者のタイトルを、

獲得した。

 

★1963年

ロサンゼルスで、ザ.デストロイヤーに

勝利したものの、反則勝ちであった為、

残念ながら、WWA世界ヘビー級王者の

タイトル奪取ならず。

 

★1964年

アメリカに於いて、当時の三大世界タイトルであったNWA(ルー.テーズ)WWWF(ブルーノ.サンマルチノ)WWA(フレッド.ブラッシー)に連続で挑戦した。

この挑戦は、アメリカのプロレスマット界の

伝説となり、ジャイアント馬場さんの名前を、世界に知らしめる基盤となった。

 

★1965年

ディック.ザ.ブルーザーに勝利し、

インターナショナルヘビー級王者の

タイトルを獲得した。

 

★1972年

全日本プロレスリング株式会社を

旗揚げした。

 

★1980年

デビューから20年目に、ザ.シークを相手に

した試合で、通算3000試合を達成した。

 

★1985年

※7月にスタン.ハンセンに敗れ、

PWFヘビー級王座を奪われる。

 

※第一線から退いた後は、ラッシャー木村選手や、百田光雄選手とファミリー軍団を

結成し、前座で明るく、楽しく、愉快な、

プロレスを披露し、人気を博した。

 

★1998年

12月5日に、プロレスラーを現役引退する。

通算なんと、5769試合もリングに上がった。

 

★1999年

プロレスラー現役引退からわずか2ヶ月後の、1月31日に、入院していた東京医科大学病院に於いて、61歳の若さで逝去した。

死因は、大腸癌の肝転移による肝不全であった。

 

本物のエンターティナ―

 

 

世間一般では、プロレスはあくまで、

ショーであり、真剣勝負をやっていないと

揶揄される傾向に有る様に思われますが、

馬場さんは「シュート(真剣勝負、ガチンコ)を超えたものがプロレス。」という

言葉を残しています。

 

観客を芯から熱狂させ、興奮状態にさせる

試合を行なう為には、真剣勝負を超える次元の事をやらなければならない、ということだと私は理解しています。

 

その為には、心身共に、想像を絶する

鍛錬が必要だったのでしょう。

 

ある意味、本物のエンターティナーだと

思います。

 

早過ぎる死が、本当に悔やまれます。

 

では、今日の所はこの辺で。

 

また次回、元気でお会いしましょう。

 

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