頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛法

発毛効果のあるブログ

約30年間薄毛と共に過ごしてきましたが、ある情報がきっかけで、薄毛治療を開始し、改善されつつあります。まさか61歳にしてこんなに改善されるなんて想像もしていませんでしたので、本当にビックリしました。おかげさまで副作用も全くないので、一体どこまで改善されるのか、楽しみしかありません。

野村克也さんは●●になると稼げると思い映画館に通った

皆さん、こんばんは。

薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、

7月7日七夕生まれの、

ミスターヒコボシです。

 

本日は、我らが阪神タイガースが低迷した1999年からの3年間、

結果的には3年連続最下位に終わったといえ、監督として確実に、

「常勝チームとなる礎」を築いてくれた球界の至宝「ノムさん」こと、

野村克也さんの登場です!

 

プロフィール

 

京都府立峰山高等学校出身

生年月日 1935年

身長 175cm

体重 85kg

血液型 B型

 

経歴

 

★小学生時代

※3歳の時に父親が満州で戦死し、母子家庭での極貧生活を、

余儀なくされる。

 

※小学校1年生の頃から、兄と共に新聞配達や、アイスキャンディーを

売ったり、近所の子守をしたり、色々とアルバイトをして生計を支えた。

 

※元々病弱だった看護師の母親が、小学校2年と3年の2回もガンを患い、

極貧生活に一層拍車がかかる。

 

★中学生時代

※極貧生活から何とか抜け出したい一心で、将来歌手になろうと思い、

コーラス部に所属する。

 

※俳優になると、お金が稼げると思い、映画館にも通う。

 

プロ野球選手の方が 稼げると考え、2年生から野球部に入部。

素質が開花し、すぐに4番、キャッチャーに抜擢された。

 

※3年生の時、奥丹後地方で優勝し、京都府大会でもベスト4に入った。

 

※勉強があまりできなかったこともあり、母親からは、中学を卒業したら、

働く様に言われていた。

 

※成績優秀だった兄が「高校ぐらい出ておかないと将来困る」と、

心配してくれ、自らの大学受験を断念してまで、高校進学への

後押しをしてくれた。

 

京都府立峰山高等学校

※母親に内緒で野球部に入部するが、すぐにバレてしまう。

※顧問の先生が間に入ってくれて、退部は逃れる。

※バットが買えない程、貧しかったので、一升瓶に海水を入れて

素振りをしていた。

 

※当時、廃部が検討されていた程の弱小チームで、2年生の時に、

京都府予選の2回戦まで進んだのが最高で、甲子園といえば、

遥か遠くの夢でしかなかった。

 

プロ野球入りを希望するも、全くの無名選手だったため、

顧問の先生が、プロ球団の監督宛に手あたり次第、

直接推薦状を送ってくれた。

 

※当時南海ホークスの監督だった鶴岡一人さん(当時は山本姓)

だけが、返事をくれ野村選手を見に来てくれた。

 

※鶴岡監督が見守る中、野村選手はランニングホームランを放つ。

(なんと、高校時代のホームランはこの1本だけである。)

 

念願のプロ入り

 

★1954年

※契約金0のテスト生として、南海ホークスに入団。

※9試合出場、11打数0安打の結果で、シーズンオフに

はやくも戦力外通告を受ける。

 

※ところが直後の、秋季キャンプ中に正捕手が交通事故、2番手捕手が、

トレードに出され、3番手捕手も頭部に死球を受けてケガをしたため、

いきなり捕手不足事態に陥り、一転残留の可能性が出てきた。

 

※「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電車

飛び込んで自殺します。」と担当マネージャーに粘り強く交渉して、

ようやく残留が決定する。

 

驚異の粘り腰!!(笑)

 

★1955年

※捕手としては肩が弱かった為、一塁手へのコンバートを命ぜられる。

 

※当時の一塁手のレギュラーは球界を代表する飯田選手だったので、

このままだとレギュラーにはなれないと思い、鉄アレイ、テニスボール、

砂を詰めた一升瓶、握力計等で徹底して筋力を鍛え、遠投によって、

肩も強化した。

 

★1956年

※ハワイでの春季キャンプで、待望の一軍に抜擢される。

※このキャンプ以降、正捕手の座に定着した。

 

★1957年

※打率302、打点94、ホームラン30本で、

本塁打王のタイトルを手にする。

 

★1962年

本塁打44本、打点104で二冠王のタイトルを獲得する。

本塁打44本は、当時のパ・リーグ新記録であった。

 

★1963年

本塁打52本、打点135で2年連続の二冠王に輝く。

本塁打52本は、当時のプロ野球新記録であった。

 

★1965年

※打率320、本塁打42本、110打点で初の三冠王に輝いた。

 

★1975年

※5月22日に後楽園球場で、史上2人目の、

通算600号本塁打を達成する。

 

月見草

 

野村選手が、通算600号本塁打という史上2人目の偉業を達成した時、

後楽園球場の観客は、わずか7000人でした。

試合後のインタビューでは、大勢の観客の前でプレーしている

王選手や長嶋選手を「ヒマワリ」の花にたとえ、自分自身は、

人目につかないでひっそりと咲く「月見草」に例え、王選手や

長嶋選手がいたおかげで頑張れた、みたいな発言をしました。

このとき以来「月見草」が野村選手の代名詞となりました。

 

★1969年

選手兼監督のプレーイングマネージャーとして「キャッチャー」

「4番打者」「監督」の3役の重責を34歳の若さで担う。

 

★1970年

※監督兼任でありながら、打率295、本塁打42本、打点114の

好成績を残した。

 

35歳で監督兼任で、この成績はお見事!!

 

※母子家庭で育ったためか、情に厚く、監督兼任当時、

選手には勿論のこと、裏方の人の事もよく気にかけていた。

 

※猛打賞をとることが多かったが、その賞でもらったアンダーシャツや、

ストッキングを段ボール箱に山積み積んで、選手や打撃投手、

ブルペン捕手まで配りまわっていた。

また、スーツ等もよく裏方の方に譲ったりもした。

 

現役時代のタイトル

 

首位打者 1回(1965年)

 

本塁打王 9回(1957年、1961年~1968年)

8年連続は、パ・リーグ記録

 

打点王  7回(1962年~1967年 1972年)

6年連続は、パ・リーグ記録

 

最多安打 1回(1965年)

 

ハングリー精神

 

プロ野球に入団して1年目に「クビ」を宣告された野村選手が、

通算657本塁打を打つ様な大打者になるとは、当時誰も、

夢にも思わなかったことでしょう。

 

今年84歳になった野村さんは、最近こんなことを言っています。

プロ野球選手になろうと決意したのは、苦労を掛けてきた

母親を楽にさせてやりたい一心からだった。ハングリー精神は必要だ。」

 

尋常ではない苦難を乗り越えてきた人の言葉は、

ズッシリと重いですね。

 

奥様が亡くなられてから、少し元気がない様に見えますが、

球界のご意見番として、まだまだボヤキまくって欲しいですね。

 

では、今日のところはこの辺で。

 

また次回、元気でお会いしましょう。

 

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