野村克也さんは●●になると稼げると思い映画館に通った
皆さん、こんばんは。
薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、
7月7日七夕生まれの、
ミスターヒコボシです。
本日は、我らが阪神タイガースが低迷した1999年からの3年間、
結果的には3年連続最下位に終わったといえ、監督として確実に、
「常勝チームとなる礎」を築いてくれた球界の至宝「ノムさん」こと、
野村克也さんの登場です!
プロフィール
京都府立峰山高等学校出身
生年月日 1935年
身長 175cm
体重 85kg
血液型 B型
経歴
★小学生時代
※3歳の時に父親が満州で戦死し、母子家庭での極貧生活を、
余儀なくされる。
※小学校1年生の頃から、兄と共に新聞配達や、アイスキャンディーを
売ったり、近所の子守をしたり、色々とアルバイトをして生計を支えた。
※元々病弱だった看護師の母親が、小学校2年と3年の2回もガンを患い、
極貧生活に一層拍車がかかる。
★中学生時代
※極貧生活から何とか抜け出したい一心で、将来歌手になろうと思い、
コーラス部に所属する。
※俳優になると、お金が稼げると思い、映画館にも通う。
※プロ野球選手の方が 稼げると考え、2年生から野球部に入部。
素質が開花し、すぐに4番、キャッチャーに抜擢された。
※3年生の時、奥丹後地方で優勝し、京都府大会でもベスト4に入った。
※勉強があまりできなかったこともあり、母親からは、中学を卒業したら、
働く様に言われていた。
※成績優秀だった兄が「高校ぐらい出ておかないと将来困る」と、
心配してくれ、自らの大学受験を断念してまで、高校進学への
後押しをしてくれた。
★京都府立峰山高等学校
※母親に内緒で野球部に入部するが、すぐにバレてしまう。
※顧問の先生が間に入ってくれて、退部は逃れる。
※バットが買えない程、貧しかったので、一升瓶に海水を入れて
素振りをしていた。
※当時、廃部が検討されていた程の弱小チームで、2年生の時に、
京都府予選の2回戦まで進んだのが最高で、甲子園といえば、
遥か遠くの夢でしかなかった。
※プロ野球入りを希望するも、全くの無名選手だったため、
顧問の先生が、プロ球団の監督宛に手あたり次第、
直接推薦状を送ってくれた。
だけが、返事をくれ野村選手を見に来てくれた。
※鶴岡監督が見守る中、野村選手はランニングホームランを放つ。
(なんと、高校時代のホームランはこの1本だけである。)
念願のプロ入り
★1954年
※契約金0のテスト生として、南海ホークスに入団。
※9試合出場、11打数0安打の結果で、シーズンオフに
はやくも戦力外通告を受ける。
※ところが直後の、秋季キャンプ中に正捕手が交通事故、2番手捕手が、
トレードに出され、3番手捕手も頭部に死球を受けてケガをしたため、
いきなり捕手不足事態に陥り、一転残留の可能性が出てきた。
※「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電車に
飛び込んで自殺します。」と担当マネージャーに粘り強く交渉して、
ようやく残留が決定する。
驚異の粘り腰!!(笑)
★1955年
※捕手としては肩が弱かった為、一塁手へのコンバートを命ぜられる。
※当時の一塁手のレギュラーは球界を代表する飯田選手だったので、
このままだとレギュラーにはなれないと思い、鉄アレイ、テニスボール、
砂を詰めた一升瓶、握力計等で徹底して筋力を鍛え、遠投によって、
肩も強化した。
★1956年
※ハワイでの春季キャンプで、待望の一軍に抜擢される。
※このキャンプ以降、正捕手の座に定着した。
★1957年
※打率302、打点94、ホームラン30本で、
本塁打王のタイトルを手にする。
★1962年
※本塁打44本、打点104で二冠王のタイトルを獲得する。
★1963年
※本塁打52本、打点135で2年連続の二冠王に輝く。
★1965年
※打率320、本塁打42本、110打点で初の三冠王に輝いた。
★1975年
※5月22日に後楽園球場で、史上2人目の、
通算600号本塁打を達成する。
月見草
野村選手が、通算600号本塁打という史上2人目の偉業を達成した時、
後楽園球場の観客は、わずか7000人でした。
試合後のインタビューでは、大勢の観客の前でプレーしている
王選手や長嶋選手を「ヒマワリ」の花にたとえ、自分自身は、
人目につかないでひっそりと咲く「月見草」に例え、王選手や
長嶋選手がいたおかげで頑張れた、みたいな発言をしました。
このとき以来「月見草」が野村選手の代名詞となりました。
★1969年
選手兼監督のプレーイングマネージャーとして「キャッチャー」
「4番打者」「監督」の3役の重責を34歳の若さで担う。
★1970年
※監督兼任でありながら、打率295、本塁打42本、打点114の
好成績を残した。
35歳で監督兼任で、この成績はお見事!!
※母子家庭で育ったためか、情に厚く、監督兼任当時、
選手には勿論のこと、裏方の人の事もよく気にかけていた。
※猛打賞をとることが多かったが、その賞でもらったアンダーシャツや、
ストッキングを段ボール箱に山積み積んで、選手や打撃投手、
ブルペン捕手まで配りまわっていた。
また、スーツ等もよく裏方の方に譲ったりもした。
現役時代のタイトル
★首位打者 1回(1965年)
★本塁打王 9回(1957年、1961年~1968年)
8年連続は、パ・リーグ記録
★打点王 7回(1962年~1967年 1972年)
6年連続は、パ・リーグ記録
★最多安打 1回(1965年)
ハングリー精神
プロ野球に入団して1年目に「クビ」を宣告された野村選手が、
通算657本塁打を打つ様な大打者になるとは、当時誰も、
夢にも思わなかったことでしょう。
今年84歳になった野村さんは、最近こんなことを言っています。
「プロ野球選手になろうと決意したのは、苦労を掛けてきた
母親を楽にさせてやりたい一心からだった。ハングリー精神は必要だ。」
尋常ではない苦難を乗り越えてきた人の言葉は、
ズッシリと重いですね。
奥様が亡くなられてから、少し元気がない様に見えますが、
球界のご意見番として、まだまだボヤキまくって欲しいですね。
では、今日のところはこの辺で。
また次回、元気でお会いしましょう。