頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛法

発毛効果のあるブログ

約30年間薄毛と共に過ごしてきましたが、ある情報がきっかけで、薄毛治療を開始し、改善されつつあります。まさか61歳にしてこんなに改善されるなんて想像もしていませんでしたので、本当にビックリしました。おかげさまで副作用も全くないので、一体どこまで改善されるのか、楽しみしかありません。

古田敦也さんが初めて購入した中古車

皆さん、こんにちは。

薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、

7月7日七夕生まれの、

ミスターヒコボシです。

 

本日は「メガネをかけたキャッチャーは大成しない」という固定観念を、

見事に覆し、東京ヤクルトスワローズの名捕手として一時代を築き、

ID野球の申し子と呼ばれたミスタースワローズこと、

古田敦也さんの登場です!

 

プロフィール

 

立命館大学経営学経営学科卒業

トヨタ自動車出身

右投 右打 捕手

生年月日 1965年8月6日

身長 182cm

体重 80㎏

血液型 B型

 

経歴

 

★幼少期

※両親と兄と妹の5人家族で、自然豊かな住宅地に住んでいた。

 

※父親は宇部興産に勤めた後、いすゞ自動車で働いていた。

 

※母親も働いていたが、家は裕福ではなかった。

 

※両親が共働きで家にいなかったので、お腹がすくと

妹と一緒に簡単な料理を作って食べていた。

 

兵庫県川西市立加茂小学校

※小学校3年生の時、父親の勧めで地元の少年野球チーム

「加茂ブレーブス」にに入団した。

 

※入部早々にポジションを決める話し合いが持たれ、監督が

「キャッチャーをやりたい人は?」とみんなに声をかけた。

 

※キャッチャーは特殊な難しいポジションで人気がなく、

誰も手を挙げなかったが、友達が太めの体型を見て勝手に

「古田君ができます。」と監督に進言した。

 

※監督から念押しで「本当にキャッチャー出来るのか?」と言われ、

その場の勢いで「はい!」と答えてしまい「キャッチャー古田」が誕生した。

 

※共働きの両親は働きづめで、休日も限られていたにも関わらず、

試合の応援には、必ず駆けつけてくれた。

 

※母親には「プロ野球選手になって、楽させてあげる。」と言っていた。

 

※父親には「僕にお金をつぎ込んでも、絶対に損はしない。巨人が

1億円持って迎えに来るから。」と強気なことを言っていた。

 

兵庫県宝塚市立南ひばりガ丘中学校

※野球部に所属し、引き続きキャッチャーをやって活躍した。

 

※勉強が得意で、学校の成績も良かった。

 

兵庫県立川西明峰高等学校

※小学校から夢見てきたプロ野球の世界だったが、中学生になると

現実が見えてきて、私立からの誘いを受けず、自宅から一番近い

進学校に入学した。

 

※野球部に入部し、捕手をやり続けたが、甲子園など、

夢のまた夢の世界で、プロ野球どうこう以前に、

高校で、野球はやめるつもりだった。

 

※高校3年生の時、親に買ってもらったばかりのコンタクトレンズを、

1週間で紛失し、申し訳なくて、失くしたことをどうしても親に言えず、

約半年間、コンタクトを使っているふりをした。

 

※高校3年生の8月から受験勉強を始め、一般入試で関西大学商学部と、

立命館大学経営学経営学科を受験し、どちらも見事に合格した。

 

関西大学に進学するつもりで、入学を断るために立命館大学に挨拶に行った所、

古田さんを勧誘していた立命館大学の野球部監督に入部を強く勧められ、その夜も

先輩に夕食として高級料亭に誘われ、祇園の夜に魅せられたことも手伝って、

立命館大学に進学することになった。

 

立命館大学経営学経営学

※家庭教師等、アルバイトを掛け持ちして貯金し、30万円で

ジェミニの中古車を購入した。

 

※野球部に入部し、キャッチャーとして3回生でチームを

関西学生リーグ戦で、春季と秋季連続での優勝に導いた。

 

※4回生になってキャプテンを務め、大学野球日本代表のメンバーにも選ばれ、

プロの球団からも、注目される様になった。

 

※野球部の中尾監督に日本ハムのスカウトから、上位指名確約の連絡が入ったので、

ドラフト会議当日は、会見用のひな壇が設けられた。

 

※「眼鏡をかけたキャッチャーは大成しない。」という理由で、結局指名を確約された

球団を含め、どの球団からも指名されず、この時の屈辱が、自身の反骨心に火をつける

形になり、将来必ずプロ入りして、意地でも活躍して見返してやるという、

強い気持ちにつながった。

 

トヨタ自動車

※一般の学生同様に就職活動を行ない、立命館大学経営学経営学科を卒業し、

経営学士号を取得して、トヨタ自動車に入社した。

 

※同社の硬式野球部に入部し、1年目から正捕手として都市対抗野球大会で活躍した。

 

ソウルオリンピックの野球(公開競技)の日本代表にも選ばれ、

銀メダル獲得に貢献する活躍を見せた。

 

★1990年

※ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団した。

 

※当時ヤクルトの正捕手は秦真司さんだったが、野村監督が春のキャンプで、

古田さんの腰がしっかり落ちた安定したキャッチングと、送球の際の動作の

速さを見て、正捕手に据えることにした。

 

★1992年

※6月から7月にかけて、24試合連続安打を記録した。

 

オールスターゲーム第2戦で、オールスター史上初となる

サイクル安打を放ち、MVPに輝いた。

 

※打率316、30本塁打、86打点の活躍で、1978年以来、

14年ぶりとなる、リーグ優勝に貢献した。

 

★1993年

盗塁阻止率644という、驚異の記録を達成しシーズンMVPに選出された。

 

★1997年

打率322、本塁打9本、86打点で日本一に輝き、キャッチャーとして

初めてセ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズのMVPのW受賞を果たした。

 

★2005年

キャッチャーとしては野村克也さん以来2人目、大学卒、社会人を経て

プロ入りした選手としては史上初の、通算2,000本安打を達成した。

 

夢はかなうもの

 

古田さんは子供のころからプロ野球選手になることを夢に、

両親を楽にしてあげたい気持ちもあって、頑張ってきましたが、

途中何度も、レベルの差を実感して、プロ野球選手になることを

諦めかけたと語っています。

 

そんな時は無理にでも「根拠のない自信」を持ってチャレンジすることで

前進することが出来たそうです。

 

夢がかなうかどうか、あれこれ悩むより、まずはチャレンジし続けることが

一番大事だということでしょう。

 

これから何か壁にぶつかったときに、思い出したいと思います。

 

では、今日の所はこの辺で。

 

また次回、元気でお会いしましょう。

 

良いお年を、お迎えください!

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