頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛法

発毛効果のあるブログ

約30年間薄毛と共に過ごしてきましたが、ある情報がきっかけで、薄毛治療を開始し、改善されつつあります。まさか61歳にしてこんなに改善されるなんて想像もしていませんでしたので、本当にビックリしました。おかげさまで副作用も全くないので、一体どこまで改善されるのか、楽しみしかありません。

土井正博さんは史上最年少の●●歳で近鉄の4番を打っていた

皆さん、こんばんは。

薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、

7月7日七夕生まれの、

ミスターヒコボシです。

 

本日は、プロ通算成績、2452安打、

打率282、465本塁打、1400打点という、

球史に残る大打者で、史上最年少の

18歳で近鉄の4番を打っていた、

土井正博さんの登場です。

 

プロフィール

 

 

私立大鉄高等学校中退

右投 右打 外野手、一塁手

身長 181㎝

体重 81kg

血液型 O型

 

経歴

 

 

★幼少期

我らが阪神タイガースの打線が

ダイナマイト打線」と呼ばれていた時代に

3番を打っていた別当薫さんや、5番を打っていた名捕手の土井垣武さんといった阪神タイガースの選手の「メンコ」を集めて遊んでいた。

 

★中学校時代

※野球部に所属し、エースで4番を打っていた。

 

※小さい頃は阪神タイガースのファンであったが、

甲子園より自宅に程近い、大阪球場を本拠地としていた

南海ホークスやライバルチームの西鉄ライオンズの選手に憧れていた。

 

大阪球場で行われた南海ホークス西鉄ライオンズの試合は、いつも超満員で

球場に入れなかったので、なんとか観戦したくて、

アイスクリーム売りのアルバイトに応募し、採用された。

 

※スタンドの下の方に行くと、憧れの選手の顔がハッキリ見えるので、アイスクリームの販売を同僚に任せっきりにして、常に熱視線を送っていた(笑)。

 

西鉄ライオンズのスター選手だった遊撃手の豊田泰光さんが、

相手打者が誰であろうが守備位置を変えず、

常に芝生の切れ目の所に立って守っていたのは、

カクテル光線が丁度良い角度で男前の顔(笑)に当たって、

観客によく見えるのが理由だとわかり、つくづくプロの選手はスゴイと感心した。

 

★私立大鉄高等学校

※当然、野球部に所属し入部当初から、

打線の中心にいた。

 

※1年の秋の近畿大大阪府予選の準決勝で、

強豪校の、後に阪神タイガースに入団する八尾高等学校の好投手、久野剛司投手からホームランをかっ飛ばし、プロ野球近鉄のスカウトだった根本陸夫さんの目に留まる。

 

※その後、根本さんは土井さんの家に日参するようになった。

 

※2年生の春は、選抜大会に出場したが、

1回戦で愛知県の東邦高等学校に逆転で敗れる。

 

※夏の大会では、大阪府予選大会の4回戦まで勝ち進むが、決勝戦迄を見据えた監督が

プロに行ける様なエース格が3人もいたのに、楽に勝てる相手だと判断し、3人とも温存し、外野手だった土井選手をマウンドに送り、試合に敗れる。

 

なんて日だ〜!

 

※その日を境に野球部に居づらくなり、引き続き日参してくれていた根本スカウトの誘いを受けて、高校を2年で中退してプロ入りを決意する。

 

※母子家庭で経済的にも厳しかったので、

母親を楽にしてあげたい気持ちも強かった。

 

★1962年

※入団した近鉄は、1958年から1962年迄5年連続で最下位に沈んでおり、

前年の1961年はシーズン103敗の不名誉なプロ野球記録を作る程、最悪のチーム状態で「パリーグのお荷物」と言われていた。

 

※1961年オフに、幼少期「メンコ」遊びでお世話になった(笑)

別当薫さんが監督に就任した。

 

別当監督が、土井選手の長距離打者としての素質を見出し、

史上最年少の18歳4ヶ月で4番打者に起用し「18歳の4番打者」として、

大いに話題となった。

 

※この年の土井選手の成績は打率231、5本塁打と振るわなかった為、世間からも「話題作りの4番打者」と厳しい非難を浴びた。

 

★1964年

※打率296、本塁打28本、打点98で、パリーグ最多安打の168本の安打も放ち、

若干20歳で世間にも4番打者として認められ、苦労が報われた。

 

※この年の28本塁打を皮切りに、6年連続で

20本塁打以上を記録する事になる。

 

★1967年

オールスターゲーム第1戦で、2本のホームランを放ちMVPを獲得した。

 

※打率323、本塁打28本、打点93の成績を残し、名実共にパリーグを代表する4番バッターに成長した。

 

★1971年

打率309、本塁打40本、打点113と、

自己最高の成績を残した。

 

★1975年

※前年オフに、守備面での衰えが原因で、

太平洋クラブライオンズ柳田豊選手、

芝池博明選手とのトレードで移籍した。

 

※トレード決定1週間後に、パリーグに守備機会が必要ない

指名打者制度導入が決定した為、当時近鉄の監督だった西本幸雄さんは

非常に後悔した。

 

※移籍1年目に34本塁打で、本塁打王に輝いた。

 

★1977年

クラウンガスライターと提携し、球団名が

クラウンライターライオンズに変更された。

 

※当時、非常に派手で特徴的なユニフォームのデザインだったのを思い出しました、

 

※プロ通算、2000本安打を達成した。

 

★1979年

※前年オフに球団が国土計画に売却され、

西武ライオンズとしてスタートする。

 

野村克也さん、山崎裕之さん、田淵幸一さんらスター選手が集合し、

シークレット球団として、オープン戦も手の内を見せない様に

ほとんど試合をせずに開幕を迎えたが、いきなり12連敗とつまづいた。

 

※当時の開幕オーダーは、3番土井、4番田淵、6番野村と、

そうそうたるメンバーが名を連ね、ファンならずともワクワクしましたが、

失礼ながら寄せ集め感は否めず、前期は最下位、後期はら5位に終わりました。

(当時パリーグは前、後期制だった)

 

プルヒッター

 

バットの先端部分をマウンドのピッチャー方向に向けて構える独特の

迫力満点なバッティングフォームが特徴的だった土井選手の姿は、

半世紀以上たった今でも、私の記憶にしっかりと残っています。

 

当時のパリーグは野武士的な豪快な選手が多く、バットを力任せにブンブン振り回し、

極端な話、三振かホームランしかない様なイメージでしたが、土井さんは通算465本塁打の内、ライト方向のホームランはわずか3本という完全なプルヒッター(引っぱり専門)でありながら、三振率は1割以下と、確実性の高いバッターでした。

 

400本塁打以上打って、三振率が1割以下なのは、長嶋茂雄さんと張本勲さん含め3人だけですから、その凄さを伺い知ることが出来ます。

 

卓越したバッティングの技術を、今後もプロ野球界発展の為に、

伝承し続けて頂きたいものです。

 

では、今日のところはこの辺で。

 

また次回、元気でお会いしましょう。

 

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