土井正博さんは史上最年少の●●歳で近鉄の4番を打っていた
皆さん、こんばんは。
薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、
7月7日七夕生まれの、
ミスターヒコボシです。
本日は、プロ通算成績、2452安打、
打率282、465本塁打、1400打点という、
球史に残る大打者で、史上最年少の
18歳で近鉄の4番を打っていた、
土井正博さんの登場です。
プロフィール
私立大鉄高等学校中退
右投 右打 外野手、一塁手
身長 181㎝
体重 81kg
血液型 O型
経歴
★幼少期
我らが阪神タイガースの打線が
「ダイナマイト打線」と呼ばれていた時代に
3番を打っていた別当薫さんや、5番を打っていた名捕手の土井垣武さんといった阪神タイガースの選手の「メンコ」を集めて遊んでいた。
★中学校時代
※野球部に所属し、エースで4番を打っていた。
※小さい頃は阪神タイガースのファンであったが、
甲子園より自宅に程近い、大阪球場を本拠地としていた
南海ホークスやライバルチームの西鉄ライオンズの選手に憧れていた。
※大阪球場で行われた南海ホークスと西鉄ライオンズの試合は、いつも超満員で
球場に入れなかったので、なんとか観戦したくて、
アイスクリーム売りのアルバイトに応募し、採用された。
※スタンドの下の方に行くと、憧れの選手の顔がハッキリ見えるので、アイスクリームの販売を同僚に任せっきりにして、常に熱視線を送っていた(笑)。
相手打者が誰であろうが守備位置を変えず、
常に芝生の切れ目の所に立って守っていたのは、
カクテル光線が丁度良い角度で男前の顔(笑)に当たって、
観客によく見えるのが理由だとわかり、つくづくプロの選手はスゴイと感心した。
★私立大鉄高等学校
※当然、野球部に所属し入部当初から、
打線の中心にいた。
強豪校の、後に阪神タイガースに入団する八尾高等学校の好投手、久野剛司投手からホームランをかっ飛ばし、プロ野球近鉄のスカウトだった根本陸夫さんの目に留まる。
※その後、根本さんは土井さんの家に日参するようになった。
※2年生の春は、選抜大会に出場したが、
1回戦で愛知県の東邦高等学校に逆転で敗れる。
※夏の大会では、大阪府予選大会の4回戦まで勝ち進むが、決勝戦迄を見据えた監督が
プロに行ける様なエース格が3人もいたのに、楽に勝てる相手だと判断し、3人とも温存し、外野手だった土井選手をマウンドに送り、試合に敗れる。
なんて日だ〜!
※その日を境に野球部に居づらくなり、引き続き日参してくれていた根本スカウトの誘いを受けて、高校を2年で中退してプロ入りを決意する。
※母子家庭で経済的にも厳しかったので、
母親を楽にしてあげたい気持ちも強かった。
★1962年
※入団した近鉄は、1958年から1962年迄5年連続で最下位に沈んでおり、
前年の1961年はシーズン103敗の不名誉なプロ野球記録を作る程、最悪のチーム状態で「パリーグのお荷物」と言われていた。
※1961年オフに、幼少期「メンコ」遊びでお世話になった(笑)
別当薫さんが監督に就任した。
※別当監督が、土井選手の長距離打者としての素質を見出し、
史上最年少の18歳4ヶ月で4番打者に起用し「18歳の4番打者」として、
大いに話題となった。
※この年の土井選手の成績は打率231、5本塁打と振るわなかった為、世間からも「話題作りの4番打者」と厳しい非難を浴びた。
★1964年
※打率296、本塁打28本、打点98で、パリーグ最多安打の168本の安打も放ち、
若干20歳で世間にも4番打者として認められ、苦労が報われた。
※この年の28本塁打を皮切りに、6年連続で
20本塁打以上を記録する事になる。
★1967年
※オールスターゲーム第1戦で、2本のホームランを放ちMVPを獲得した。
※打率323、本塁打28本、打点93の成績を残し、名実共にパリーグを代表する4番バッターに成長した。
★1971年
打率309、本塁打40本、打点113と、
自己最高の成績を残した。
★1975年
※前年オフに、守備面での衰えが原因で、
太平洋クラブライオンズに柳田豊選手、
芝池博明選手とのトレードで移籍した。
※トレード決定1週間後に、パリーグに守備機会が必要ない
指名打者制度導入が決定した為、当時近鉄の監督だった西本幸雄さんは
非常に後悔した。
★1977年
※クラウンガスライターと提携し、球団名が
クラウンライターライオンズに変更された。
※当時、非常に派手で特徴的なユニフォームのデザインだったのを思い出しました、
※プロ通算、2000本安打を達成した。
★1979年
※前年オフに球団が国土計画に売却され、
西武ライオンズとしてスタートする。
※野村克也さん、山崎裕之さん、田淵幸一さんらスター選手が集合し、
シークレット球団として、オープン戦も手の内を見せない様に
ほとんど試合をせずに開幕を迎えたが、いきなり12連敗とつまづいた。
※当時の開幕オーダーは、3番土井、4番田淵、6番野村と、
そうそうたるメンバーが名を連ね、ファンならずともワクワクしましたが、
失礼ながら寄せ集め感は否めず、前期は最下位、後期はら5位に終わりました。
(当時パリーグは前、後期制だった)
プルヒッター
バットの先端部分をマウンドのピッチャー方向に向けて構える独特の
迫力満点なバッティングフォームが特徴的だった土井選手の姿は、
半世紀以上たった今でも、私の記憶にしっかりと残っています。
当時のパリーグは野武士的な豪快な選手が多く、バットを力任せにブンブン振り回し、
極端な話、三振かホームランしかない様なイメージでしたが、土井さんは通算465本塁打の内、ライト方向のホームランはわずか3本という完全なプルヒッター(引っぱり専門)でありながら、三振率は1割以下と、確実性の高いバッターでした。
400本塁打以上打って、三振率が1割以下なのは、長嶋茂雄さんと張本勲さん含め3人だけですから、その凄さを伺い知ることが出来ます。
卓越したバッティングの技術を、今後もプロ野球界発展の為に、
伝承し続けて頂きたいものです。
では、今日のところはこの辺で。
また次回、元気でお会いしましょう。