王貞治さんは腕相撲は弱いのになぜか●●は強かった
皆さん、こんばんは。
薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、
7月7日七夕生まれの、
ミスターヒコボシです。
本日は、レギュラーシーズン通算本塁打868本の世界記録保持者で、
プロフィール
生年月日 1940年
身長 177cm
体重 79kg
血液型 O型
経歴
★東京都墨田区立業平小学校
懸垂もできず腕相撲も弱い子供だったが、小学校4年生の時、
クラスメイトと野球チームを作り、エースで4番を打つほど、
野球は抜群にうまかった。
「相撲取りになりなさい」と言われる程だった。
★東京墨田区立本所中学校
入学した中学には野球部がなかったので、地元のオヤジさんが、
作ってくれた高校生主体の野球クラブ「厩四ケープハーツ」に、
中学生ながら加入した。
当時は左投げ、右打ちだったが、たまたま犬の散歩の途中で
チームの試合を見た、プロ野球の毎日オリオンズの荒川博さんと出会い、
左打ちを勧められ、その場の試合で、いきなり左中間を破る二塁打を打ち、
直ぐに左打ちへの転向を決めた。
なんて日だ!!(笑)
★早稲田実業学校高等部
1年時
※春季関東大会東京都予選決勝に投手として先発出場。
日大三高に4-0で完封勝利し優勝を手に入れる。
※夏の甲子園東京都予選に左翼手兼控え投手としてレギュラー入りし、
打順も1年生ながら5番を任される。
宿敵、明治高等学校を準決勝で2-1で破り、勢いそのままに、
決勝も成蹊高等学校を13-1で下し、夏の全国甲子園大会に出場する。
※甲子園大会の1回戦は、新宮高等学校に勝利するものの、
2回戦は、強豪県立岐阜商業高等学校に1-8で敗れる。
2年時
※春の選抜甲子園大会に出場。投手として準決勝まで、
3試合連続完封勝利の快投を見せる。
決勝戦は4試合連続完封は逃したものの、5-3で
完投勝利を収め、関東に初めての選抜優勝旗をもたらした。
※夏の甲子園大会にも出場し、2回戦で寝屋川高等学校から、
延長11回の熱戦で、なんとノーヒットノーランを達成した。
延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では、
春夏を通じて唯一の記録である。
この夏の大会ではベスト8で、法政二高に1-2で惜敗した。
3年時
※春の選抜甲子園大会で、30年ぶりの記録となる、2試合連続ホームランを放つ。
大会ではベスト8で、濟々黌高等学校に敗退した。
※夏の大会は、東京都予選決勝で明治高等学校に敗れ、
5季連続の甲子園出場を逃す。
★1959年
契約金1800万円、年俸144万円、背番号「1」といった、
高校卒の新人としては、破格の条件で巨人に入団した。
入団後、甲子園の優勝投手でありながら、投手としての実力は、
プロでは通用しないと判断され、打者に専念することになる。
オープン戦では本塁打5本と活躍し、新人ながら注目を集める。
ただ公式戦が開幕すると、全く快音は聞かれなくなり、
デビューから10試合無安打が続き、26打席無安打と、
早くもプロの洗礼を浴びる事となる。
初ホームラン
4月26日後楽園球場での対国鉄スワローズ戦の
(ダブルヘッダー第2試合)で0-0で迎えた7回、
1塁にランナーを置いて、既にここまで2打席凡退の王選手に、
水原監督は代打も考えたが、既に2アウトで得点圏にランナーもおらず、
この日の王選手は8番バッターだったこともあり、次打者が投手なので、
代打を温存することを優先して、そのまま王選手を打席に送りました。
王選手が打った打球は、ライトスタンド最前列に落ちて、記念すべき、
公式戦初安打が決勝2ランホームラン(出場11試合目)であり、
記念すべき第1号ホームランとなった。
10試合もヒットが出ない高卒新人を、
よくぞ使い続けた!アッパレ!!
★1960年
打率270、本塁打17本、打点71と主軸として
まずまずの成績を2年目に残したものの、三振は101個と多かった。
★1962年
公式戦の開幕で、22歳にして初めて4番に座るも、6月30日まで、
打率259、本塁打9本と物足りない成績しか残せなかった。
7月1日より、シーズン中にもかかわらず、突然あの(笑)荒川コーチから、
「今日から一本足で打て。三振を怖がるな!」と命じられる。
突然、なんて日だ!!(笑)
と言いながら、これをきっかけに打撃開眼し、
この年、本塁打38本、打率272、打点85の成績を残し、
★1963年
※シーズン開幕から、一本足打法で打ちまくり、
長嶋さんとのコンビが「ON砲」と呼ばれ始める。
※打率305で初めて3割を超え、打点も106で、
主軸としての地位を不動のものとする、活躍をみせた。
★1964年
シーズン55本塁打の偉業を達成する。119打点で、
2度目の打点王も獲得するが、打率320と健闘するも、
★1965年
シーズン中にケガをするも、本塁打42本で、4年連続の本塁打王、
109打点で2年連続、3度目の打点王に輝いた。
★1973年
打率355、51本塁打、114打点と、
文句の言いようのない好成績で、史上3人目、
自身初の三冠王に輝く。
★1974年
※打率322、49本塁打、107打点で、史上初の、
2年連続三冠王を達成する。
※史上8人目となる、通算2000本安打を達成する。
※巨人はセ・リーグで10連覇は阻まれたが、自身は、
2年連続でMVPを受賞した。
★1975年
※三冠王を達成している王選手にとっては、打率285 33本塁打、
96打点の成績は決して満足できる数字ではなかった。
※打点王は獲得したものの、13年間守り続けた本塁打王の座を、
★1977年
9月3日、対ヤクルトスワローズ戦で、通算本塁打756号を放ち、
★1978年
※118打点で8年連続の打点王になったが、これが結局、
現役最後に獲得する主要な打撃タイトルとなる。
※日本プロ野球史上初の2000打点を記録した。
★1980年
「王貞治としてのバッティングができなくなった」という言葉を残し、
現役引退を表明した。
誠実で真面目な人柄で知られる王貞治さんは、現役時代から、
道具を大切に扱う事でも知られていて、同じミットを、
10年以上使い、自ら裁縫までして使い続けていました。
またファンを、非常に大切にする事でも有名で、ファンレターや、
年賀状の返事は、練習でどんなに疲れていても、必ず書いていました。
当時キャンプ地に持ち込んだハガキや、手紙の量は数万通とも
言われていました。
他人のことを、あまり褒める事のない、同時代にパ・リーグで
活躍した野村克也さんが「王は常に謙虚で、まわりを気遣う紳士であり、
特に弱い立場の人への配慮を、欠かさないところがあった」と褒め称えています。
今後も末永く、日本プロ野球界の発展のために、是非お力を、
貸して頂きたいものです。
では、今日の所はこの辺で。
また次回、元気でお会いしましょう。