頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛法

発毛効果のあるブログ

約30年間薄毛と共に過ごしてきましたが、ある情報がきっかけで、薄毛治療を開始し、改善されつつあります。まさか61歳にしてこんなに改善されるなんて想像もしていませんでしたので、本当にビックリしました。おかげさまで副作用も全くないので、一体どこまで改善されるのか、楽しみしかありません。

王貞治さんは腕相撲は弱いのになぜか●●は強かった

皆さん、こんばんは。

薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、

7月7日七夕生まれの、

ミスターヒコボシです。

 

本日は、レギュラーシーズン通算本塁打868本の世界記録保持者で、

読売ジャイアンツのV9に貢献した王貞治さんの登場です!

 

プロフィール

 

早稲田大学系属早稲田実業学校高等部出身

左投、左打 一塁手右翼手

生年月日 1940年

身長 177cm

体重 79kg

血液型 O型

 

経歴

 

★東京都墨田区立業平小学校

懸垂もできず腕相撲も弱い子供だったが、小学校4年生の時、

クラスメイトと野球チームを作り、エースで4番を打つほど、

野球は抜群にうまかった。

 

腕相撲は弱いのに何故か相撲は強く、当時の横綱吉葉山関から

「相撲取りになりなさい」と言われる程だった。

 

★東京墨田区立本所中学校

入学した中学には野球部がなかったので、地元のオヤジさんが、

作ってくれた高校生主体の野球クラブ「厩四ケープハーツ」に、

中学生ながら加入した。

 

当時は左投げ、右打ちだったが、たまたま犬の散歩の途中で

チームの試合を見た、プロ野球毎日オリオンズ荒川博さんと出会い、

左打ちを勧められ、その場の試合で、いきなり左中間を破る二塁打を打ち、

直ぐに左打ちへの転向を決めた。

 

なんて日だ!!(笑)

 

早稲田実業学校高等部

1年時 

※春季関東大会東京都予選決勝に投手として先発出場。

日大三高に4-0で完封勝利し優勝を手に入れる。

夏の甲子園東京都予選に左翼手兼控え投手としてレギュラー入りし、

打順も1年生ながら5番を任される。

宿敵、明治高等学校を準決勝で2-1で破り、勢いそのままに、

決勝も成蹊高等学校を13-1で下し、夏の全国甲子園大会に出場する。

 

※甲子園大会の1回戦は、新宮高等学校に勝利するものの、

2回戦は、強豪県立岐阜商業高等学校に1-8で敗れる。

 

2年時

※春の選抜甲子園大会に出場。投手として準決勝まで、

3試合連続完封勝利の快投を見せる。

勝戦は4試合連続完封は逃したものの、5-3で

完投勝利を収め、関東に初めての選抜優勝旗をもたらした。

 

夏の甲子園大会にも出場し、2回戦で寝屋川高等学校から、

延長11回の熱戦で、なんとノーヒットノーランを達成した。

延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では、

春夏を通じて唯一の記録である。

この夏の大会ではベスト8で、法政二高に1-2で惜敗した。

 

3年時

※春の選抜甲子園大会で、30年ぶりの記録となる、2試合連続ホームランを放つ。

大会ではベスト8で、濟々黌高等学校に敗退した。

 

※夏の大会は、東京都予選決勝で明治高等学校に敗れ、

5季連続の甲子園出場を逃す。

 

★1959年

契約金1800万円、年俸144万円、背番号「1」といった、

高校卒の新人としては、破格の条件で巨人に入団した。

 

入団後、甲子園の優勝投手でありながら、投手としての実力は、

プロでは通用しないと判断され、打者に専念することになる。

 

オープン戦では本塁打5本と活躍し、新人ながら注目を集める。

 

ただ公式戦が開幕すると、全く快音は聞かれなくなり、

デビューから10試合無安打が続き、26打席無安打と、

早くもプロの洗礼を浴びる事となる。

 

初ホームラン

 

4月26日後楽園球場での対国鉄スワローズ戦の

ダブルヘッダー第2試合)で0-0で迎えた7回、

1塁にランナーを置いて、既にここまで2打席凡退の王選手に、

水原監督は代打も考えたが、既に2アウトで得点圏にランナーもおらず、

この日の王選手は8番バッターだったこともあり、次打者が投手なので、

代打を温存することを優先して、そのまま王選手を打席に送りました。

 

王選手が打った打球は、ライトスタンド最前列に落ちて、記念すべき、

公式戦初安打が決勝2ランホームラン(出場11試合目)であり、

記念すべき第1号ホームランとなった。

 

10試合もヒットが出ない高卒新人を、

よくぞ使い続けた!アッパレ!!

 

★1960年

打率270、本塁打17本、打点71と主軸として

まずまずの成績を2年目に残したものの、三振は101個と多かった。

 

★1962年

公式戦の開幕で、22歳にして初めて4番に座るも、6月30日まで、

打率259、本塁打9本と物足りない成績しか残せなかった。

7月1日より、シーズン中にもかかわらず、突然あの(笑)荒川コーチから、

「今日から一本足で打て。三振を怖がるな!」と命じられる。

 

突然、なんて日だ!!(笑)

 

と言いながら、これをきっかけに打撃開眼し、

この年、本塁打38本、打率272、打点85の成績を残し、

初めて本塁打王打点王のタイトルを獲得した。

 

★1963年

※シーズン開幕から、一本足打法で打ちまくり、

長嶋さんとのコンビが「ON砲」と呼ばれ始める。

 

本塁打40本で2年連続本塁打王に輝く。

 

※打率305で初めて3割を超え、打点も106で、

主軸としての地位を不動のものとする、活躍をみせた。

 

★1964年

シーズン55本塁打の偉業を達成する。119打点で、

2度目の打点王も獲得するが、打率320と健闘するも、

わずか3厘差で江藤慎一選手に及ばず、三冠王は逃す。

 

★1965年

シーズン中にケガをするも、本塁打42本で、4年連続の本塁打王

109打点で2年連続、3度目の打点王に輝いた。

 

★1973年

打率355、51本塁打、114打点と、

文句の言いようのない好成績で、史上3人目、

自身初の三冠王に輝く。

 

★1974年

※打率322、49本塁打、107打点で、史上初の、

2年連続三冠王を達成する。

 

※史上8人目となる、通算2000本安打を達成する。

 

※巨人はセ・リーグで10連覇は阻まれたが、自身は、

2年連続でMVPを受賞した。

 

★1975年

三冠王を達成している王選手にとっては、打率285 33本塁打

96打点の成績は決して満足できる数字ではなかった。

 

打点王は獲得したものの、13年間守り続けた本塁打王の座を、

阪神タイガース田淵幸一選手に明け渡した。

 

★1977年

9月3日、対ヤクルトスワローズ戦で、通算本塁打756号を放ち、

メジャーリーグ記録を抜き「世界新記録」となる。

 

★1978年

※118打点で8年連続の打点王になったが、これが結局、

現役最後に獲得する主要な打撃タイトルとなる。

 

※日本プロ野球史上初の2000打点を記録した。

 

★1980年

王貞治としてのバッティングができなくなった」という言葉を残し、

現役引退を表明した。

 

誠実で真面目な人柄で知られる王貞治さんは、現役時代から、

道具を大切に扱う事でも知られていて、同じミットを、

10年以上使い、自ら裁縫までして使い続けていました。

 

またファンを、非常に大切にする事でも有名で、ファンレターや、

年賀状の返事は、練習でどんなに疲れていても、必ず書いていました。

 

当時キャンプ地に持ち込んだハガキや、手紙の量は数万通とも

言われていました。

 

他人のことを、あまり褒める事のない、同時代にパ・リーグ

活躍した野村克也さんが「王は常に謙虚で、まわりを気遣う紳士であり、

特に弱い立場の人への配慮を、欠かさないところがあった」と褒め称えています。

 

今後も末永く、日本プロ野球界の発展のために、是非お力を、

貸して頂きたいものです。

 

では、今日の所はこの辺で。

 

また次回、元気でお会いしましょう。

 

 

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