長嶋茂雄さんの高校初ホームランは推定●●●メートルだった
皆さん、こんばんは。
薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、
7月7日七夕生まれの、
ミスターヒコボシです。
本日は、通算打率305、8000打数以上の右打者では、
プロフィール
立教大学出身
右投右打 三塁手
生年月日 1936年
身長 178cm
体重 76kg
血液型 B型
経歴
★千葉県佐倉市立臼井小学校
6年生の時に、兄が所属していた地元青年野球団の「ハヤテ・クラブ」に
所属して遊撃手として育成された。
★千葉県佐倉市臼井二町組合立中学校
野球部に入部。特に目立った活躍はなかった。
★千葉県立佐倉第一高等学校(現・千葉県立佐倉高等学校)
2年時 チームの4番バッターを務める。
3年時 地区大会を勝ち進み、千葉代表として南関東大会に出場。
1回戦、熊谷高等学校との試合で、それまでショートの守備で、
エラーが多かった長嶋さんですが、試合直前に負傷した三塁手に代わって、
初めてサードを守り、安定した守備を見せた事がキッカケで、
その後コンバートされ、三塁手に定着する。
この試合では、敗れたものの、長嶋さんは高校公式試合で、
自身初の本塁打を放った。
しかもそのホームランが、推定飛距離約107メートル。
ライナー性の鋭い当たりで、センターバックスクリーン芝生下に飛び込む、
インパクト抜群のホームランだったので、野球関係者から、
大いに注目されるきっかけとなった。
★セレクション
1953年11月、静岡の伊東スタジアムで開催された立教大学野球部の
セレクションで、長嶋さんはフェンス直撃を含む3安打を放ち、
参加選手中2位で合格した。
(参加選手80人中20人が甲子園出場経験選手)
★立教大学経済学部
1954年6月に父親が急逝し、一家の大黒柱を失い困窮する。
母親が野菜売りの行商をして生計を支える姿を見て、
長嶋さんは、大学を中退してプロ入りする事も考えましたが、
母親から猛反対されて断念しました。
★東京六大学野球リーグ通算成績
通算96試合出場 打率286(304打数87安打)。
8本塁打、39打点、22盗塁。
★1958年
※新人でオープン戦7本の本塁打を放ち、公式戦での活躍を期待される。
※4月5日開幕戦、対国鉄スワローズ戦に3番サードで先発出場。
※国鉄スワローズのエース金田正一投手に4打席連続三振を喫するも、
その全てが、渾身のフルスイングの三振であった事から、
伝説的に語り継がれている。
※9月19日対広島戦で28号本塁打を放つも、一塁ベースを踏み忘れて、
本塁打を取り消される。このベース踏み忘れがなければ、
読売巨人軍唯一のトリプルスリー
(打率3割・本塁打30本・30盗塁)が、
新人にして達成される所だった。
もったいないけど、長嶋さんらしい
愛すべき、天然プレー(笑)
※この年、新人ながら、阪神タイガースの田宮謙次朗さんと
首位打者争いを展開する。
田宮選手がシーズン終盤欠場して以降、長嶋選手は全試合出場することで、
打率が下がってしまい、305でリーグ2位に終わる。
※打率303、本塁打29本、92打点、37盗塁の堂々たる成績で、
新人王に輝いた!
新人で、この成績は凄すぎる!!
さすがミスタープロ野球!!
★1959年
※後楽園球場で行なわれた天覧試合で、4-4で迎えた9回裏、
※この試合で新人だった、王貞治選手もホームランを放ち、
通算106回あったONアベックホームランの第1回となった。
※打率334で初の首位打者のタイトルを獲得する。
★1960年
打率334で、2年連続の首位打者に輝く。
★1961年
打率353で3年連続の首位打者と、本塁打28本で本塁打王の、
2冠王となる。打点はリーグ2位の86打点だった。
★1963年
打率341、37本塁打、112打点で首位打者、打点王の2冠王となる。
★1966年
※打率344で、5度目の首位打者のタイトルを獲得する。
26本塁打、105打点は、それぞれ王選手に次ぐリーグ2位であった。
「長嶋選手を2年間で良いので譲って欲しい」と
正力松太郎社主に打診したが、
「長嶋がいなくなると、日本の野球が10年おくれる」と、
断られたのは有名な話。
★1968年
125打点で打点王のタイトルを獲得する。
打率318(リーグ2位)39本塁打(リーグ3位)。
★1969年
115打点で打点王のタイトルを獲得する。
打率311(リーグ3位)32本塁打(リーグ4位)。
★1970年
105打点で3年連続の打点王に輝く。
★1971年
史上5人目となる通算2000本安打を達成する。
1708試合での達成は、川上哲治さんに次ぐ、歴代2位の
スピード記録で、右打者では歴代最速記録であった。
また、大学卒のプロ野球選手では、初の達成者となった。
★1974年
※10月12日に中日ドラゴンズのリーグ優勝が決まり、
巨人のV10が消えた日に、長嶋選手は、現役引退を表明しました。
※引退セレモニーのスピーチ「我が巨人軍は永久に不滅です!」は、
今でも語り継がれていて、有名な言葉として人々の心に残っている。
※長嶋選手引退のニュースは、1974年の読売新聞の、
10大ニュースの4位になる程、社会的事件であった。
エンターティナー
長嶋選手の空振りは、脱げたヘルメットが三塁ベンチの方まで、
飛んでいったといわれるほどで、豪快な空振りでファンを沸かせました。
実は、三振をした時の画を事前に考え、わざわざ小さめで
楕円形のヘルメットを、アメリカから取り寄せ、
ヘルメットの飛んでいく角度など、空振りの練習までしていました。
また三塁の守備に於いても、普通のサードの守備位置よりも敢えて、
1.5メートル程、後ろに守り、守備範囲を広げ、ショートやピッチャーの
守備範囲の打球でも、見ようによっては横取りする様にキャッチして、
スタンドを大いに沸かせました。
そればかりか、より華のある守備を演出するために、スローイングの後に、
右手をヒラヒラさせる独特の動作を行なって、
一層ファンを楽しませていました。
この動きは、歌舞伎の動きを参考にしたものだという。
ファンが喜ぶことを、ここまでトコトン考えて、実践した選手に、
これまで長嶋選手以外、私は見たことも聞いたことも有りません。
勿論私も、そのうちの一人ですが、長嶋茂雄さんは、
巨人以外のファンからも、敵味方関係なく、心底愛されている、
「ミスタープロ野球」です。
「長嶋茂雄さんは、永久に不滅です!!」
では、今日の所はこの辺で。
また次回、元気でお会いしましょう。