若松勉さんは野球をやる傍ら●●●で全国大会にも出場した
皆さん、こんばんは。
薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、
7月7日七夕生まれの、
ミスターヒコボシです。
年間打率3割を12回も達成した「小さな大打者」の異名を持つ、
プロフィール
北海高等学校⇒電電北海道(現・NTT北海道)出身
右投 左打 外野手
生年月日 1947年4月17日
身長 168cm
体重 76kg
血液型 B型
経歴
★北海道留萌市立東光小学校
幼少の頃からスキーを楽しみ、野球は小学校から始めた。
★北海道留萌市立留萌中学校
野球をやる傍ら、小柄なハンデがあまり影響しないスキーにも没頭し、
ノルディックスキーで全国大会にも出場した。
※正直、野球部かスキー部どちらに入部するか悩んだが、
猛練習をしている野球部に魅力を感じ、入部を決断した。
※1964年夏に、2年生でセカンドのレギュラーを奪い、
チームも甲子園に出場したが、病気を発症して無念の欠場となった。
※1965年夏も、チームは2年連続甲子園出場を果たす。
※3番ライトで出場し、1回戦で試合には敗れたが、
4盗塁を決め、俊足ぶりが話題となった。
★電電北海道(現・NTT北海道)に入社
強豪がひしめき合っていたので、チームは都市対抗野球大会には
出場できなかった。
※1967年から補強選手として、4年連続して都市対抗野球大会に
出場し、中心打者として活躍した。
★1970年
ドラフト3位で入団する。
※当時のドラフト会議は、テレビ放映もなく、電話連絡だったが、電話して来た球団の
スカウトの声が、所属チームの監督の声と、そっくりだった為「監督、何を冗談言ってるのですか?」と言って対応してしまったというエピソードが残っている。
(5年間社会人チームに在籍して、全く声がかからなかった為、絶対指名等ないと思い込んでいた)
※ヘッドコーチの中西太さんに素質を見込まれ、キャンプ前の早い段階から、マンツーマンで猛練習を重ねた。
★1971年
※努力のかいあって、1年目からレフトのレギュラーを掴み、規定打席不足ではあったが、
112試合に出場し、打率303をマークする活躍を見せた。
※オフには早くも背番号が57番から1番に
変更された。
★1972年
※入団2年目にして、打率329で首位打者を獲得した。
※リーグ2位となる盗塁も20個記録し、早くもセリーグを代表する外野手の仲間入りを果たした。
★1973年
首位打者は逃したものの、セリーグ2位の打率313で、2年連続3割を達成した。
★1974年
当時の試合数130全試合に出場し、セリーグ5位となる打率312で、3年連続3割の快挙を成し遂げた。
★1976年
※張本勲さんや、谷沢健一さんと、激しい首位打者争いを展開したが、打率344の高打率ながら、終盤の失速が響き、リーグ3位に終わる。
ちなみにこの年、張本勲さんの打率は、
(355477)、谷沢建一さんの打率は、
(355483)と、その差00006(6糸)という
プロ野球史上稀に見る高レベルで、僅差の争いだった。
※この年、首位打者を逃した悔しさから、
今迄以上に、限界まで猛練習を重ねた。
★1977年
※センターにコンバートされ、打率358という、驚異的な記録で2度目の首位打者に輝いた。
※公称168㎝(自称166㎝)の小さな体で、ホームランも20本放ち、三振数も503打席で、わずか14と、堅実なバッティングで、チーム2位躍進の原動力となった。
★1978年
マニエルさんの強力クリーンナップトリオ
で、ヤクルトがチーム初の日本一に輝いた。
※広島カープの水谷実雄さんとの首位打者争いに敗れるも、セリーグ2位の打率341の好成績を残して、日本一に多いに貢献した。
★1985年
※史上21人目の通算2000本安打を達成し、
日本プロ野球名球会会員となった。
★1986年
※打撃コーチ補佐兼任選手となる。
★現在、北海道日本ハムファイターズ監督の栗山英樹さんのスイッチヒッター転向を進言し、熱心な打撃指導が功を奏し、規定打席不足ながら、打率301を記録し、ライトのレギュラーを獲得した。
★1989年
ヤクルト一筋19年の、42歳の時に
現役引退をした。
通算打率319は歴代2位で、日本人選手の中では、歴代最高記録であった。
(4000打数以上対象の最高記録は、
レロンリーの320)
人格者
想像を絶する様な猛練習で、自分をトコトン追い込み、厳しいプロ野球の世界を生き抜き、超一流選手にまで駆け上った若松勉さんは「自分に厳しく、他人に優しい」典型的な人格者だと思います。
一軍監督時代には、あまりにも選手に気を使い過ぎる言動に対し、周りのコーチは「もっと毅然とした態度で、厳しく接して下さい。」と進言した程でした。
決して選手を甘やかしていた訳ではなく、
純朴ゆえに口下手だったこともあり、誤解される事も多かった様です。
チームを強くする為には、トレードはつきものですが、若松さんは、ほとんどタッチしませんでした。
監督退任後「私は、誰もチームから出したくなかった」と語りました。
チームを強くするだけが監督の仕事と考えれば、決して評価される発言ではないかも知れませんが、人間的に私は大好きです。
出身地の北海道では、道民栄誉賞を受賞する程、絶大な人気を誇っています。
日本ハムファイターズで監督をされる日が
来ると良いですね。
では、今日のところはこの辺で。
また次回、元気でお会いしましょう。