稲尾和久さんは●●の異名を持っていた
皆さん、こんばんは。
薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、
7月7日七夕生まれの、
ミスターヒコボシです。
本日は、西武ライオンズの前身である、
西鉄ライオンズのエースとして1958年、
巨人との日本シリーズで3連敗の後の4試合全てに登板し、勝利を収め「神様、仏様、稲尾様」と称えられ「鉄腕」の異名を持つ、
稲尾和久さんの登場です!
プロフィール
大分県立別府緑丘高等学校出身
右投 右打 投手
生年月日 1937年6月10日
身長 180㎝
体重 80kg
血液型 O型
経歴
★幼少期
※父親は漁師の仕事を継がせるつもりで、
櫓を漕ぐ小舟で毎日海に連れて行き、
漁を手伝わせていた。
※プロ野球で大活躍する原動力となった、
爪先で立つような独特の投球フォームは、
小舟を漕ぐことから会得したといわれた。
※また、いつ海に落ちて命を落とすか分からない小舟に乗る毎日を経験した事で、マウンド上でも動じない度胸がついたと後年、本人が語っている。
※地元の別府市を本拠地としていた実業団チームの星野組が、第20回都市対抗野球大会で全国優勝し、オープンカーで市内パレードをしたのを見て感動する。
※星野組のエースピッチャーだった荒巻淳さんに憧れて、野球選手を目指す事にした。
★中部中学校
※野球部に所属し、キャッチャーとして活躍した。
※学校の成績も良く、文武両道を地で行くタイプで、生徒会長も務めた。
★大分県立別府緑丘高等学校
※野球部に入部し、1年の秋から投手に転向した。
※2年生の夏にエースピッチャーとなり、秋季九州大会大分県予選で、準決勝まで勝ち上がったが、後にプロ入りする好投手、田中喜八郎さんがいた津久見高等学校に0-1で惜敗した。
※3年生の夏の甲子園大会大分県予選でも、ベスト4まで勝ち進んだが、ここでも
後にプロ入りする好投手、阿南準郎さんがいた佐伯鶴城高等学校に2-3と惜敗し、甲子園大会出場の夢は断たれた。
★1956年
※西鉄ライオンズに入団したが、無名選手だった事もあり、当時の監督だった三原修さんも「稲尾はバッティング投手として獲得した」と公言していた。
※当時スター選手だった豊田泰光さんには、
キャンプイン当初「手動式練習機」と呼ばれていたが、キャンプも後半に入ると、
稲尾さんに簡単に打ち取られる場面が増え、豊田選手から直接三原監督に「稲尾を試合で使ってみて欲しい。」と言わせる程までに急成長を遂げた。
※入団1年目にして、投手陣に故障者が続出した事も有り、61試合に登板し21勝6敗という好成績を挙げ、防御率1.06というパリーグ記録まで作ってしまった。
※結果、新人王と最優秀防御率のWタイトルを手にした。
※日本シリーズにも出場し「パリーグ初高校卒新人投手先発登板」の記録を達成した。
★1957年
プロ2年目にして20連勝を含む、35勝6敗という驚異的な成績を残し、
史上最年少でパリーグのMVPに選出された。
★1958年
※33勝10敗で史上初の2年連続パリーグMVPに輝いた。
⭐︎第1戦
●西鉄2-9巨人○
稲尾投手が先発するも、4回、被安打7、失点3でノックアウトされる(投球数73)
⭐︎第2戦
●西鉄3-7巨人○
島原投手が先発するも、4回、4失点でノックアウトされる
⭐︎第3戦
●西鉄0-1巨人○
稲尾投手が先発し9回、3安打1失点と好投するも援護に恵まれず敗れる(投球数94)
⭐︎第4戦
○西鉄6-4巨人●
雨で1日順延となり、中1日で稲尾投手が先発し完投勝利(投球数126)
⭐︎第5戦
○西鉄4-3巨人●
稲尾投手は4回からリリーフで登板し、延長10回裏、自らのバットでサヨナラホームランを放つ!(投球数67)
⭐︎第6戦
○西鉄2-0巨人●
稲尾投手が先発し、被安打3の完封勝利を収める(投球数108)
⭐︎第7戦
○西鉄6-1巨人●
稲尾投手先発し、被安打6、失点1で完投勝利を収め(投球数110)、西鉄ライオンズが、大逆転で日本一に輝いた
神様 仏様 稲尾様
※この年の日本シリーズで、稲尾投手は、
7試合中6試合に登板し、第3戦以降は、
5連投だった。
※5試合に先発し、4完投、578球を投げ抜く
鉄腕ぶりをいかんなく発揮し、地元な新聞には
「神様 仏様 稲尾様」の見出しが踊った。
★1959年
※75試合に登板し、30勝15敗で史上唯一の、
3年連続30勝を記録した。
★1961年
78試合に登板し、42勝14敗の驚異的な成績を残した。
★1962年
8月25日、プロ入り7年目の25歳86日という若さで、通算200勝を達成した。
★1963年
※28勝16敗で、4度目の最多勝のタイトルを獲得した。
※プロ入りから、この年まで8年連続で20勝以上の快挙を成し遂げ「鉄腕」の名を欲しいままにした。
※8年間での年平均登板数は66試合、平均投球回数は345イニングにもなった。
サイちゃん
稲尾さんは、私生活が「サイ」のようにゆったりとして「サイ」のように優しい目をしていた事で、親しみを込めて周りからは「サイちゃん」と呼ばれていました。
温厚な性格で、多くの野球関係者が、その人柄とチームのエースとしての品格を称賛していました。
中でもロッテの監督時代、落合博満さんから良き指導者として慕われ、稲尾さんがロッテの監督を解任された際、落合さんが「稲尾さんがいないロッテにいる必要がない。」と中日ドラゴンズに移籍したというのは有名な話です。
日本プロ野球界の為に尽力された功績を讃えると共に、
心からご冥福をお祈りいたします。
では、今日のところはこの辺で。
また次回、元気でお会いしましょう。