米田哲也さんの「2位じゃダメなんでしょうか?」
皆さん、こんばんは。
薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、
7月7日七夕生まれの、
ミスターヒコボシです。
本日は、プロ野球の阪急ブレーブス投手の現役時代に、驚異的なスタミナの持ち主として世間から認知され「人間機関車」「ガソリンタンク」「タフマン」等と呼ばれていた、米田哲也さんの登場です!
プロフィール
右投 右打 投手
生年月日 1938年3月3日
身長 180㎝
体重 87kg
血液型 AB型
経歴
★小学校時代
※日本海に面した鳥取県で、新鮮な魚が豊富に獲れる事もあり、魚が大好きで毎日魚を食べていた。
※運動が好きな活発な子供で、小学校の低学年の頃から、弓ヶ浜まで往復10キロぐらい、毎日平気で走っていたので、自然と足腰が鍛えれた。
※野球部に所属し、ポジションは捕手だった。
※野球部長から「お前の顔では、投手が怖がるので、逆に投手になって相手打者を怖がらせるんだ。」という奇妙なアドバイスを受けて、投手に転向し、1年生の秋から本格派の投手として、注目される様になった。
※2年生の夏の甲子園鳥取県予選で、決勝まで勝ち進み、後にプロ入りする好投手、義原武敏投手と延長10回迄、投げ合うも敗れてしまった。
※秋季大会も、中国地方大会まで勝ち進んだが、準決勝で山口の防府高等学校に敗れた。
※3年生の夏の甲子園鳥取県予選もベスト4までコマを進めるが、米子南高等学校に敗れ、甲子園出場の夢は潰えた。
★1956年
※高校卒業後、阪神タイガースと阪急ブレーブスの2球団から誘われ、阪神の方が、金銭面の条件は良かったが、「エースナンバーの背番号18がもらえる」という事に魅力を感じ、阪急ブレーブスへの入団を決意した。
もしもこの時、米田さんが阪神タイガースに入っていたら・・・。
※阪急ブレーブス入団1年目から、9勝を挙げるも15敗し、
プロの洗礼を受ける形となった。
★1957年
21勝16敗 防御率1.86の好成績を収め、
2年目にして、右のエースとして、当時の左腕エース、梶本隆夫さんと共に「ヨネカジコンビ」と呼ばれた。
★1961年
オフに巨人の王貞治さんとのトレード話が持ち上がるが、
阪急ブレーブス側が拒否して不成立となった。
もしトレードが成立していたら・・・。
間違いなくプロ野球の歴史は変わっていたでしょうね。
「う~ん、どうなんでしょうね~」 長嶋茂雄さん風に (笑)。
★1966年
※25勝で最多勝のタイトルを獲得した。
※プロ通算200勝を達成する。
★1967年
18勝を挙げて、球団の初優勝に貢献した。
★1968年
29勝13敗と自己最高の勝利数、29勝を挙げMVPに輝いた。
★1971年
プロ通算300勝を達成した。
歴代2位
★プロ通算登板数949試合は、2017年岩瀬仁紀さんに
抜かれるまでは、40年間記録を保持していましたが、
現在、歴代2位の記録。
★プロ通算勝利350勝も大変な記録ですが、金田正一さんの
通算400勝に次ぐ、歴代2位の記録。
「2位じゃダメなんでしょうか?」(笑)。
「米田ディナー」
★この時代の人にしてはと言っては、失礼かもしれませんが、
「ガソリンタンク」「人間機関車」といった豪快なイメージの
異名をつけられた裏側で、しっかりと体調管理やスタミナ確保に
努める方でした。
★登板した試合の日の夜は、水分補給のみで、何も食べずに就寝し、
翌日の朝食から徐々に食事の量を増やして、ゆっくりと時間をかけて
食べる夕食は「米田ディナー」と名付けられていた。
★現役時代の22年間、ほとんど肩や肘など大きな故障をしなかったのも、
こういった、自己管理能力の高さだったと思われます。
1985年、我らが阪神タイガースは、21年ぶりのリーグ優勝と
初の日本一に輝きました!
その時の一軍投手コーチは、何を隠そう(隠す必要ないか・・・笑。)
米田哲也さんだったのです!
吉田監督に中西清起さんを、救援役に強く推薦したのは、
他でもない米田さんで、その貢献度は、かなり高かったと思います。
御年、81歳になられたということで、最近テレビ等で拝見することも
あまりなくなった様に思われますが、いつまでもお元気でいていただきたいですね。
では、今日のところはこの辺で。
また次回、元気でお会いしましょう。