頭皮 薄毛 抜け毛の悩みをぶっ壊す 発毛法

発毛効果のあるブログ

約30年間薄毛と共に過ごしてきましたが、ある情報がきっかけで、薄毛治療を開始し、改善されつつあります。まさか61歳にしてこんなに改善されるなんて想像もしていませんでしたので、本当にビックリしました。おかげさまで副作用も全くないので、一体どこまで改善されるのか、楽しみしかありません。

米田哲也さんの「2位じゃダメなんでしょうか?」

皆さん、こんばんは。

薄毛治療の放置歴30年の超ベテラン、

7月7日七夕生まれの、

ミスターヒコボシです。

 

本日は、プロ野球の阪急ブレーブス投手の現役時代に、驚異的なスタミナの持ち主として世間から認知され「人間機関車」「ガソリンタンク」「タフマン」等と呼ばれていた、米田哲也さんの登場です!

 

プロフィール

 

 

鳥取県立境高等学校出身

右投 右打 投手

生年月日 1938年3月3日 

身長 180㎝

体重 87kg

血液型 AB型

 

経歴

 

 

★小学校時代

日本海に面した鳥取県で、新鮮な魚が豊富に獲れる事もあり、魚が大好きで毎日魚を食べていた。

 

※運動が好きな活発な子供で、小学校の低学年の頃から、弓ヶ浜まで往復10キロぐらい、毎日平気で走っていたので、自然と足腰が鍛えれた。

 

鳥取県米子市立美保中学校

※野球部に所属し、ポジションは捕手だった。

 

※野球部長から「お前の顔では、投手が怖がるので、逆に投手になって相手打者を怖がらせるんだ。」という奇妙なアドバイスを受けて、投手に転向し、1年生の秋から本格派の投手として、注目される様になった。

 

※2年生の夏の甲子園鳥取県予選で、決勝まで勝ち進み、後にプロ入りする好投手、義原武敏投手と延長10回迄、投げ合うも敗れてしまった。

 

※秋季大会も、中国地方大会まで勝ち進んだが、準決勝で山口の防府高等学校に敗れた。

 

※3年生の夏の甲子園鳥取県予選もベスト4までコマを進めるが、米子南高等学校に敗れ、甲子園出場の夢は潰えた。

 

★1956年

※高校卒業後、阪神タイガースと阪急ブレーブスの2球団から誘われ、阪神の方が、金銭面の条件は良かったが、「エースナンバーの背番号18がもらえる」という事に魅力を感じ、阪急ブレーブスへの入団を決意した。

 

もしもこの時、米田さんが阪神タイガースに入っていたら・・・。

 

※阪急ブレーブス入団1年目から、9勝を挙げるも15敗し、

プロの洗礼を受ける形となった。

 

★1957年

21勝16敗 防御率1.86の好成績を収め、

2年目にして、右のエースとして、当時の左腕エース、梶本隆夫さんと共に「ヨネカジコンビ」と呼ばれた。

 

★1961年

オフに巨人の王貞治さんとのトレード話が持ち上がるが、

阪急ブレーブス側が拒否して不成立となった。

 

もしトレードが成立していたら・・・。

 

間違いなくプロ野球の歴史は変わっていたでしょうね。

通算本塁打世界記録、V9、田淵さんの本塁打王の回数・・・。

 

「う~ん、どうなんでしょうね~」 長嶋茂雄さん風に (笑)。

 

 

★1966年

※25勝で最多勝のタイトルを獲得した。

※プロ通算200勝を達成する。

 

★1967年

18勝を挙げて、球団の初優勝に貢献した。

 

★1968年

29勝13敗と自己最高の勝利数、29勝を挙げMVPに輝いた。

 

★1971年

プロ通算300勝を達成した。

 

歴代2位

★プロ通算登板数949試合は、2017年岩瀬仁紀さんに

抜かれるまでは、40年間記録を保持していましたが、

現在、歴代2位の記録。 

 

★プロ通算勝利350勝も大変な記録ですが、金田正一さんの

通算400勝に次ぐ、歴代2位の記録。

 

「2位じゃダメなんでしょうか?」(笑)。

 

「米田ディナー」

★この時代の人にしてはと言っては、失礼かもしれませんが、

「ガソリンタンク」「人間機関車」といった豪快なイメージの

異名をつけられた裏側で、しっかりと体調管理やスタミナ確保に

努める方でした。

 

★登板した試合の日の夜は、水分補給のみで、何も食べずに就寝し、

翌日の朝食から徐々に食事の量を増やして、ゆっくりと時間をかけて

食べる夕食は「米田ディナー」と名付けられていた。

 

★現役時代の22年間、ほとんど肩や肘など大きな故障をしなかったのも、

こういった、自己管理能力の高さだったと思われます。

 

1985年、我らが阪神タイガースは、21年ぶりのリーグ優勝と

初の日本一に輝きました!

 

その時の一軍投手コーチは、何を隠そう(隠す必要ないか・・・笑。)

米田哲也さんだったのです!

 

吉田監督に中西清起さんを、救援役に強く推薦したのは、

他でもない米田さんで、その貢献度は、かなり高かったと思います。

 

御年、81歳になられたということで、最近テレビ等で拝見することも

あまりなくなった様に思われますが、いつまでもお元気でいていただきたいですね。

 

では、今日のところはこの辺で。

 

また次回、元気でお会いしましょう。

 

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